代表の河上祐隆(かわかみつねたか)や、おかやま工房、そしてリエゾンプロジェクト開発などの歴史についてまとめました。
1996年 製造スタッフに女性を採用 パン職人の世界の常識に挑む
男性のパン職人が工房でパンをつくり、パート・アルバイトの女性 スタッフが店頭で販売する。製パンは完全に男性の仕事で、女性が製 造に関わるのはサンドイッチや惣菜パンくらいだ。これが、長らく業 界内の共通認識だった。
1996年、当時大学4年生だった岡田恵里が、製造スタッフとしての 就職を希望したことで、河上は、パン職人の世界の常識に挑むことに なる。
河上は、以前から女性の製造スタッフの必要性を感じていた。ベー カリーは9割以上が女性客だ。女性が気に入って買ってくれるパン、 女性が好きなパンは女性がつくったほうがよいのではないか。実際、 男である河上がつくった自信作のパンでも、売れない商品はあった。 製パン業界の今後を考えても、女性が商品開発するべきではないか。
ベーカリーオーナーの集まる横浜の勉強会で相談すると、コンサル タントの保住光男氏に大反対された。パン屋に来るお客さまは、プロ の職人がつくるパンだからこそ、お金を払って買ってくれる。若い女 性が工房に入ってパンをつくっていると、お遊びだと思われ、お客さ まの信用をなくすことになると忠告された。
それでも河上は、岡田の採用に踏み切った。同じく未経験で、製パ ンの仕事へ転職を希望していた女性も採用した。
採用を前に、河上は2人に、パン職人の世界で女性がプロとして認 められることの難しさを伝えたが、2人とも覚悟はできていた。
女性が工房にいると、女というだけでプロとは思ってもらえない。 河上は、「男以上に頑張れ。その姿をお客さまに見せろ」と厳しく指 導した。「絶対に笑うな」と、工房では全員に笑顔を禁止した。空気 がピンと張りつめた工房で、2人は毎日のように叱られ、怒鳴られたが、 必死にパンと向き合った。一日15、16時間、ひたすらパンをつくり 続け、やがて男性スタッフを超えるプロのパン職人に育っていった。
1997年 スタッフのひと言から始まった 無添加パンへのチャレンジ
おいしいパンをつくるためには、合成添加物が欠かせない。今でも これがパン業界の常識である。
河上が岡山で開業した当時、最も一般的な合成添加物は、酵母菌を 安定して発酵させるためのイーストフードだった。その後、メーカー の新たな開発により、パンにボリュームを出す改良剤が登場し、どこ のパン屋も当たり前のように何種類かの合成添加物を使っていた。
無添加のパンづくりについて、河上が考えるきっかけになったのは、 西古松の店で働き始めたパートスタッフのひと言だった。店で使って いた4種類の合成添加物を見て、「これ、入れないといけないんですか」 と不思議そうな顔で言ったのだ。聞けば、家に炊飯器がないほどの無 類のパン好きで、毎日パンをつくって食べているが、合成添加物など、 見たことも使ったこともないと言う。
家でつくったパンを持ってきてもらうと、確かにふんわりしたパン ではなかったが、きちんと膨らんでいて、おいしく食べられるパンだっ た。無添加でパンをつくれるのかもしれないという衝撃は、研究した い、挑戦したいという河上の好奇心をかきたてた。
それから2年近くを費やし、河上は、日曜日の定休日のたびに工房 に足を運んで無添加のパンづくりに取り組んだ。製パン関連の専門書 を読みあさり、同じ業界の知人にもアドバイスを求めた。ときには、 日曜日に数時間だけ店を開けて無添加のパンを販売し、常連客に意見 を聞くこともあった。
小麦粉の種類を変え、材料の配合やレシピを考え直し、温度管理を 徹底し、生地のミキシング方法を変え、何度も改良を加えていくうち、 徐々に及第点といえる味のパンが焼けるようになった。
ちょうど時を同じくして、岡山市(現岡山市中区)国富への移転が 決まり、河上は、思い切ってオープン初日からすべてのパン生地を無 添加に切り替えた。
多忙を極める河上が、今も参加を続ける ベーカリーオーナーだけの勉強会
パンクックを開業して4、5年が過ぎた頃、 ある出会いが、20代で日商35万円を売り上げ る人気ベーカリーのオーナーとなり、ナンバー ワン経営者を自負していた河上の自信を打ち 砕く。
きっかけは、製粉会社の営業マンに誘われ て見学した勉強会。ベーカリーコンサルタン トの保住光男氏が主宰するドゥ・ネットワー ククラブは、2カ月に1回、売上・利益増を 目的にベーカリーオーナーばかりを集め、横 浜で勉強会を開催している。
ベーカリーは日商35万円が限界といわれて いた時代、大阪にもそれ以上売る路面店のパ ン屋はなかった。ところが、メンバーの売り 上げ報告を聞くと、関東には40万円、50万円 の日商を上げる店が数多くあり、河上と同じ ように22歳で独立し、複数の店舗を経営する オーナーもいた。まだまだ上には上がいる。 自分が完全に井の中の蛙だったことを思い知 らされた河上は、その場で勉強会への参加を 決めた。それ以来、国内外を忙しく飛び回る 現在でも、毎回必ず参加するようにしている。
この勉強会は、情報交換や人脈づくりの場 でもある。真の経営者とは何かを真剣に考え 始めていた河上は、同時期に会に加わったピー ターパンの横手和彦氏に多くを教えられる。
ピーターパンは、千葉県内に現在9店舗を展 開するリテールベーカリー。日本のパン業界 では、ほとんどの場合、パンを製造する職人 が店を経営しているが、横手氏はパン職人で はない。元銀行マンで、ショットバーを経営 していた異色の経歴を持つ。工房に入ってパ ンを焼くのではなく、株式会社ピーターパン を経営する経営者なのである。
職人から経営者になると、パンに対するこ だわりが強くなり、自分のつくりたいパンを 追求するあまり、顧客のニーズが後回しになっ てしまう。おいしいパンを提供することはも ちろん大切だが、それが本当に顧客の求めて いるパンなのかを一番に考えるべきだ。そう すれば、自ずと売り上げは付いてくる。実際 に店舗を訪ねた河上は、そのことを横手氏と ピーターパンの店づくりに学んだ。
ドイツのクリスマスを岡山へ 3000個も売れるドレスデン・シュトーレン
20年以上前、当時の国富店の店長で、毎年 ヨーロッパ研修に参加していた岡田恵里が、 ある年、スイスにあるリッチモンド製パン製 菓専門学校でドレスデン・シュトーレンのつ くり方を学んできた。
今でこそ、広く知られるようになったが、 シュトーレンは、生地にドライフルーツやナッ ツが練りこまれ、表面を覆う粉糖が雪のよう に見えるドイツの伝統的な発酵菓子である。 ドイツやオランダだけでなく、ドイツ語圏の 国や都市のクリスマスには欠かせない。
岡田が持ち帰ったレシピ通りにドレスデン・ シュトーレンをつくってみたが、日本人には 香辛料が強すぎた。そこで、河上と岡田がレ シピをアレンジし、おかやま工房のシュトー レンが完成した。
クリスマスの後、年明けからバレンタイン までの季節商品にと、河上の思いつきで、生 地にチョコレートを使ったショコラーデ・シュ トーレンもつくってみた。ヨーロッパには存 在しないが、よく売れた。
横浜の勉強会で全国のベーカリーオーナー にレシピを公開したため、今でも販売してい る店がいくつもある。
クリスマスに販売するドレスデン・シュトー レンは、毎年3000個以上つくる。直営店以外に、リエゾンプロジェクトで独立したオーナー たちにも卸している。個包装に時間と人手を 割かれるため、リエプロのミニベーカリーで 製造するのは難しいからである。
一つ一つラッピングするスタッフたちに とっては、年に一度の大変な作業だ。
1999年 突然に届いた差押えの通達 移転資金の調達に奔走
まさに寝耳に水だった。1999年4月、河上は、突然に裁判所から届 いた差押えの通達で、家主が破産し、行方がわからなくなったことを 知る。つい1、2週間前にも会って話をしていたが、そんな様子は全 くなかった。
1990年にオープンした店は内装が古くなり、1年ほど前に800万円 を銀行から借りて改装したばかり。弁護士に相談すると、店が競売に かけられる前に移転することを強く勧められた。競売になれば、誰が 落札するかわからない。家賃を上げられたり、追い出されたりするケー スもあるというのだ。
河上にも、有限会社おかやま工房にも担保がない。これまでは、大 阪にパンクックを開業したときから取引していた住友銀行(現三井住 友銀行)から無担保で借りていた。ところが、金融機関はどこも不良 債権処理に追われ、小口の融資はしてくれない。すでに800万円を借 りていたこともあり、移転資金の借り入れは断られた。
岡山県信用保証協会に相談しても、まだ競売にかけられたわけでは なく、営業できる状態で保証などできないと言う。
解決の糸口が見つからない状況の中、これまで取引のなかった阿波 銀行を紹介してくれたのが、店舗の内装工事を手掛ける山陽ムサシノ の小川雅洋氏だった。
当時、阿波銀行の岡山支店長を務めていた内藤仁氏はパンとケーキ が好きで、おかやま工房のことも知っていた。保証協会の保証があれ ば、希望額を融資してくれることになったが、保証協会にはすでに一 度断られている。
河上は、何度も岡山県信用保証協会に足を運び、断られても通い続 け、何度も頭を下げた。人生でこれほど頭を下げたことはなかったと 振り返る。最後は、担当者が根負けして保証を約束してくれ、無事、 阿波銀行から融資を受けることができた。
1999年 西古松から国富に拡大移転 商圏と無添加の思わぬ誤算
融資のめどが立ち、西古松周辺で駐車場の広い物件を探したが、な かなか見つからない。時間をかけられない状況で、河上に阿波銀行を 紹介した山陽ムサシノのグループ会社、ムサシノ不動産が情報を持ち 込んだのが、岡山市中区国富にある37坪の物件だった。
店舗の広さも駐車場のスペースも申し分なかったが、月50万円の 賃料では、経営が厳しい。このとき幸運だったのは、家主である建築 会社の女性従業員におかやま工房のパンのファンが多かったことだ。 社長に強力に推薦してくれたおかげで、家賃は30万円に下がった。 30万円なら黒字にできると、すぐに移転を決めた。
移転オープンしたのは1999年11月。売り上げの心配はしていなかっ た。西古松の常連客に、国富の新しいお客さまが加わり、客数は伸びる。 西古松の日商35万円はすぐに超えると楽観的に考えていた。ところが、 岡山市民にとって西古松と国富は商圏が異なり、西古松の顧客の中に は、店が潰れたと思った人もいた。完全なる誤算だった。
オープン当日こそ40万円を売り上げ、パンが足りないほどの盛況 ぶりだったが、その後、日商平均は20万円に届かなかった。移転と 同時にスタッフを全員正社員にしたため人件費が増え、黒字にするに は最低でも日商30万円が必要。赤字が続いた。
さらに追い打ちをかけたのが、無添加パンへの移行だった。お客さ まにとって、パンが無添加であることは、おまけのようなもの。おい しくなければ、買ってはくれない。「無添加は安全・安心」といくら 説明しても、すぐには受け入れてもらえず、「前のパンのほうがおい しかった」と離れていったお客さまもいた。
しかし、河上は無添加のパンをやめなかった。意地があった。営業 しながらパンの改良を続け、半年間の赤字を乗り越えた。オープン1 年後には、以前のパンに近い味の無添加のパンがつくれるようになり、 日商も30万円を超えるようになった。
1999年 接客の大切さを痛感 スタッフ全員を正社員採用
河上がパン業界で働き始めた1980年代は、手づくりで焼きたてだ というだけでパンが売れた。販売スタッフはパート・アルバイトで、 棚にパンを並べ、「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」 を言うだけで十分だった。
1987年、大阪のパンクックに、レストランのフロアマネージャー だった女性を正社員で採用した。羽曳野市恵我之荘に移転してすぐに 売り上げが伸び、河上は製造に追われて工房を出られなくなった。そ こで、パート・アルバイトのスタッフの管理や教育まで、販売全般を 任せられる接客のプロが必要だった。結果、顧客とのコミュニケーショ ンが生まれ、常連客が増えて経営も盤石になっていった。
岡山では、国富に移転するまで、販売はパート・アルバイトに任せ ていた。河上の考えを変えさせたのは、1996年ごろから、西古松の 店の周辺に次々にオープンしたベーカリーに負けたことだった。同じ 会社が経営するこれらの店舗は、どこも日商50万円を売り上げ、河 上の店の売り上げは5万円ほど落ちた。
製パンメーカーの冷凍生地を使う店に売り上げを奪われるなど、 思ってもみなかった。食べ比べてみても、おかやま工房のパンのほう が明らかにおいしい。負けていたのは、接客サービスだった。
当時、このベーカリーと同系列のベーカリーレストランの接客サー ビスは、飲食業界でナンバーワンといわれていた。パンの味がおいし いだけでは、お客さまに選んでもらえない。商売は総合力だと思い知 らされた河上は、1999年、国富への移転を機にスタッフをすべて独 立希望の正社員にした。
パート・アルバイトが数時間ごとに入れ替わるシフト制ではなく、 早朝から閉店時間まで、製造と販売のすべてを正社員が行う体制に変 え、国富店の接客サービスのレベルは格段に上がった。独立を目指し、 必死で働く正社員たちの努力もあり、売り上げも徐々に伸びていった。
2002年 賃貸契約を結び、 事業主として独立させる
恩師の後押しで独立した河上は、開業した大阪のパンクックでも若 いスタッフを次々に独立させた。生き残れるのは2年で独立できる人 間、5年、10年かかるような凡人は成功しないと部下に言い続けた。
独立希望者だけを全員正社員として雇った国富のおかやま工房に は、岡山県外からの応募者もいたが、採用前に「命、懸けれるか?」 と覚悟を求めた。労働基準監督署が徒弟制度を認めていたため、スタッ フは一日15、16時間、文字通り“命懸け”で働き、優秀な部下は2、3 年で独立していった。
ところがバブル崩壊後、開業資金の調達が極端に難しくなった。バ ブル期には、頭金や自己資金がなくても銀行や国民生活金融公庫(現 日本政策金融公庫)から容易に融資が受けられたが、状況は一変した。
それでも、何とかして部下を独立させてやりたい。河上が銀行に相 談すると、おかやま工房が融資を受けて店をつくり、店ごと貸すので あれば可能だという。製パン機械のリースや内装工事もすべておかや ま工房が引き受ける。部下とリース契約を結び、リース料をもらって 事業主にするという新たな独立支援のシステムが生まれた。
このシステムを通じて最初に独立したのは、岡山の大学を卒業し、 コンピュータエンジニアとして働いていた渡部伸一だ。実家のある 愛媛県でパン屋を開きたいと、河上の下で未経験から2年間修業し、 2002年9月、岡山市北区中仙道に、わぱんをオープンさせた。
事業主として2年ほど実績を積むと、銀行も直接融資をしてくれる ようになる。わぱんは順調に業績を伸ばし、オープン2年後にはリー ス料を全額返済した。そして渡部は、2005年に愛媛県松山市に念願 のパン屋、にこぱんを開業した。
岡山市東区可知のMasabakery(マサベーカリー)や、岡山市北区 伊島北町の焼きたてパン工房Lassen(ラッセン)も同様の独立支援 店舗で、いずれも数年後に完全に独立した。
2004年 42歳、独立して20年 初めての海外、初めての渡欧
今でこそ、毎月のように海外出張する河上だが、42歳まで一度も 日本を離れたことがなかった。
そんな河上をヨーロッパに導いたのは、ドイツに住む一番弟子の岡 田恵里だ。国富店の店長だった岡田は、パンニュース社が主催するヨー ロッパ研修に毎年参加していた。ヨーロッパのパンに興味を持つ岡田 へのボーナス代わりの研修旅行だった。
ある年、研修で訪れたドイツのパンに心ひかれ、本気で勉強したい と言い出した岡田に、「おまえ、店辞めて行け」と河上が背中を押し た。新卒から8年働いたおかやま工房を退職し、30歳でドイツのデュッ セルドルフへ渡る。2、3店舗のベーカリーを移りながらドイツのパ ンづくりを学ぶ岡田から、何度もドイツに誘われた河上は、あまり乗 り気ではなかったが、行ってみることにした。2004年秋、偶然にも、 独立してちょうど20年の節目の年だった。
岡田の案内で、デュッセルドルフにあるヒンケルの工房を見学した。 1891年創業の老舗ベーカリーで、四代目のヨーゼフ· ヒンケル氏が経 営している。店では日本人スタッフも2人働いていた。
普通の体格の人では扱えないような大型のオーブンを使い、工房は しっかりと機械化・マニュアル化されている。パン職人はパンをつく るのが仕事という考えが徹底され、洗い物は洗浄機にさせ、大型のミ キサーで効率良く生地をこねる。すべてにおいて効率の良い経営をす るヒンケルから学ぶことは多く、帰国後、河上はドイツのウィンター ハルター社製の洗浄機を導入した。
この旅で河上はフランスも訪ね、それぞれの街でベーカリーを見て 歩いた。世界の広さを実感し、日本のパン屋やベーカリー経営につい て客観的に見つめる機会を得て、経営者として気持ちを新たにした。 初渡欧をきっかけに、その後もヨーロッパの都市を巡った経験が、ベー カリープロデュースの仕事につながっている。
ドイツに渡った一番弟子、岡田恵里
河上には、これまで何百人もの部下がいた。 その中でただ一人、河上と全く同じパンをつ くれる職人が岡田恵里である。見た目も味も、 河上本人ですら見分けがつかない。製造スタッ フとして採用した初めての女性であり、クー プ・デュ・モンド(ベーカリー・ワールドカッ プ)の日本代表選手選考会で最終選考にまで 残った初の女性だ。
岡田を採用したのは、1996年4月。その前 年、ノートルダム清心女子大学の4年生だった 岡田は、卒業論文の取材のために西古松の店 を訪ねてきた。テーマは「パンの造形とその 背景」。聞けば、もともとパンは好きだったが、 パンづくりに興味はなかったという。ダイエッ トのために、家でライ麦パンを焼くようになっ たのがきっかけで、パンづくりにのめり込んだ。
パン職人なら誰もが知っている神戸のフロ イン堂。機械は一切使わず、手で生地をこね てレンガの窯で焼くパン屋に岡田は足繁く通 い、製造方法を学んでは自宅で実践していた。
製パン業界に女性の製造スタッフが一人も いなかった時代、岡田は卒業後の進路に製パ ンの仕事を希望していた。「どこも就職先がなかったら、俺が雇ったるわ」。河上は軽い冗談 のつもりだったが、岡田は本当にやってきた。 見るからに文科系の22歳。そんな細い体でパ ンがつくれるはずはないと思ったが、熱意に 負けて採用することにした。
一日15、16時間労働で週休1日。ただでさ え女性には過酷な労働環境の中、男性しかい ない製パンの世界でお客さまにプロの職人と して認められるには、男性以上の努力が必要 だ。河上の指導は特別に厳しいものだったが、 岡田は歯を食いしばりながらパンをつくり続 け、何度泣かされても真正面から河上にぶつ かってきた。
ヨーロッパ研修でドイツのパンに出会い、 30歳でデュッセルドルフに渡るまで8年間、 岡田は懸命に働いた。退職時に河上が受け取っ た手紙には、便箋5枚にわたり感謝の言葉が 綴られていたが、最後に「社長の一番弟子は、 後にも先にも私一人です」と書いてあった。
現在はデュッセルドルフで結婚し、3人の子 育てに追われているが、帰国のたびに必ず連 絡してくる。ドイツに一番弟子の店が誕生す る日もそう遠くはないと、河上はその日を楽 しみにしている。
2006年 パンのテーマパークをつくりたい 大規模ベーカリーへの挑戦
国富店は、オープン時からパン生地に合成添加物を一切使わない無 添加のパンを提供している。無添加でおいしいパンをつくるには、き ちんとした温度や時間の管理が不可欠だ。そこで河上は、国富店の内 装工事の際に、工房を作業ごとに4つの部屋に分けた。
その結果、おいしい無添加パンが安定してつくれるようになり、同 時に、河上に新たな構想が生まれた。工房を分けて規模を大きくすれ ば、日商100万円の大型店舗も夢ではない。パンのテーマパークのイ メージが出来上がった。
200坪を超える規模の店をつくりたい、1億円の融資を受けるには 売り上げがいくら必要になるのかと、取引銀行の阿波銀行に相談を持 ちかけた。おかやま工房への融資を担当した内藤支店長は、全面的な 協力を約束し、具体的な決算書の数字目標を設定した。その決算書が 三期続けば、融資できるという。十分に可能な数字だった。
利益増に努めながら新店舗の候補地を探したが、なかなか希望通り の物件は見つからない。そんなとき、岡山市北区田中の店舗物件を紹 介したのは、山陽ムサシノの小川雅洋氏である。国富店の物件も小川 氏が河上に紹介し、内装工事は山陽ムサシノが行った。
スーパーマ―ケットの跡地だけに十分な広さがあり、幹線道路沿い でないことも女性客の多いベーカリーに理想的だ。賃料は交渉の末、 100万円に下がり、新店舗の場所が決まった。
220坪あった店舗部分を170坪に改装し、河上がイタリアで感動し た石窯ナポリピッツァとジェラートの店sole(! ソーレ!)も併設した。 1億円の予定だった融資額は、併設店舗の費用などで1億5000万円に 増えたが、高収益の国富店を残すことを条件に許可された。
構想から約2年、ついに2006年4月、焼きたてパン広場おかやま工 房リエゾンがオープン。本店と国富店の2店舗体制になり、5月には、 有限会社から株式会社おかやま工房に組織変更した。
2007年 石窯ナポリピッツァがつなぐ縁 福島に4坪のミニベーカリー
2004年、イタリアのナポリで食べたピッツァとジェラートのおい しさに感動した河上は、これをパンのテーマパーク構想に加えた。
日本で石窯をつくっている埼玉のツジ・キカイを見つけ、1号機の 納品先として紹介されたのが、福島にあるマンママリィ。福島県いわ き市の株式会社マルベリィが経営する、石窯ナポリピッツァとパスタ の店だ。2005年11月、河上は、石窯を見せてもらうために社長の桑 名基勝氏を訪ねた。実際に焼いてもらったピッツァの味に満足した河 上は、クラシカ・ナポリという石窯の購入を決め、ジェラート専門店 を持つ桑名氏にイタリア製のジェラート製造機も紹介してもらった。
この福島での出会いは、思わぬかたちで新しいビジネスに発展する。 2007年3月、桑名氏がおかやま工房を訪れた。案内した国富店とリエ ゾンの集客力に驚いた桑名氏は、マンママリィの横にパン屋をつくっ てほしいと河上に依頼した。パンの力で集客に伸ばしたいという。
ベーカリー経営は難しいと一旦は断ったが、詳しく調べてみると、 少ない売り上げにはなるが、設備を小さくすれば、開業は可能に思え てきた。日商10万円、来客数150人程度のミニベーカリーならと提 案すると、桑名氏は、レストランとの相乗効果が狙えると快諾した。
オープン準備は急ピッチで進んだ。ジェラート専門店のあるログハ ウスの倉庫部分、4坪ほどのスペースに工房をつくり、ジェラートの 横でパンを販売する。店名はアイスブレッドに決まった。
スタッフはレストランのホールから正社員を2人と、新たに雇った 8人のパート・アルバイト。河上の研修はオープンの1週間前にスター トした。パンの種類は15アイテム。初日はパンについての講義、2日 目は実技の実演、3日目からは実際につくってもらった。そして7日 目の2007年11月8日、マンママリィ郷ヶ丘店(福島県いわき市)の 道を挟んだ向かい側に、アイスブレッドは無事オープンした。
このとき河上は、すでにミニベーカリーの可能性を確信していた。
つながりを大切にしたい 店名のリエゾンに込めた思い
本店の店名であるリエゾンや、ミニベーカ リーの開業を支援するリエゾンプロジェクト。 このリエゾン(Liaison)という言葉は、結ば れる、つながるという意味のフランス語だ。
2004年9月、国富店に続く2店舗目の直営店 として、おかやま工房リエゾンがオープンし たが、場所は岡山市北区田中ではなく、北区 中仙道にあった。河上が独立支援した渡部伸 一がわぱんとして2年ほど営業し、地元の愛媛 に戻って店を開業したため、店舗が空いたのだ。
製パン設備が整っていた空き店舗を直営店 としてオープンさせることになり、店名を考えていた河上に、フランス語を勉強していた スタッフが提案したのがLiaisonである。お客 さまとのつながり、スタッフ同士のつながりを 大切にしたいという思いが込められている。
おかやま工房リエゾンは、2006年3月まで 中仙道で営業し、4月に、焼きたてパン広場お かやま工房リエゾンとして田中に移転オープ ンした。
そして、2009年に本格始動したリエゾン プロジェクトでも、おかやま工房とミニベー カリーのオーナーたちとの新たなつながりが 次々に生まれている。
襟にはクロワッサンの社章 惚れこんだジャック・タピオ氏の味
本格的なフランスのパンを日本に伝えたの は、フランス国立製粉学校の教授だったレイ モン・カルヴェル氏といわれている。1954年 に初めて来日し、国際パン技術講習会を開催。 バゲット、クロワッサン、ブリオッシュなど を紹介した。
カルヴェル教授の愛弟子の一人がジャック・ タピオ氏である。パリに店を構え、若い職人 に自身の技術を伝えることに熱心だったタピ オ氏は、世界各国のパン職人にパンづくりを 教え、日本にも幾度となく指導に訪れていた。
神奈川のベーカリーで食べたタピオ氏直伝のクロワッサンは、河上がそれまで出会った 中で最もおいしいと思えるクロワッサンだっ た。このクロワッサンを店の看板商品にした い! タピオ氏の指導を受けた職人から材料 の配合を教えてもらった河上は、さらにアレ ンジを加えてテストを繰り返し、おかやま工 房のクロワッサンを完成させた。
2006年4月、本店となるリエゾンをオープ ンする際、店の看板にもクロワッサンを描き、 会社のシンボルマークである社章もクロワッ サンをかたどってつくった。もちろん、今で もクロワッサンは定番の人気商品である。