2019.12.20

おかやま工房 創業35年の歴史① ~パン屋の修業・開業・リエゾンプロジェクト開発・海外進出など~

2019年8月1日、株式会社おかやま工房は、創立35周年を迎えました。

これらの歴史を振り返り、35周年誌という形でまとめましたが、多くの方に知っていただきたいとの思いから、ホームページにも同様の文章を掲載させていただきます。

代表の河上やおかやま工房、そしてリエゾンプロジェクトの開発など歴史についてもっと詳しく知りたい方は、ぜひこちらの記事をご確認ください。

1980年18歳、大阪のベーカリーで “パンの神様”に出会う

おかやま工房の原点は大阪にある。

1962年3月、大阪市城東区に生まれ、紳士服と作業服の小売業を営む裕福な家庭で育った河上祐隆(かわかみつねたか)は、高校生のときに父親の破産を目の当たりにする。有名進学校である清風高校の理数科で学年トップの成 績を収めながら、大学進学を断念。卒業後、家を出て住み込みで働けるところを探した河上が、新聞の求人欄で偶然目にしたのが「製パン」 の文字だった。食品をつくっていれば、食うには困らないだろうと、18歳で飛び込んだ製パン業界。1980年4月のことである。

生きていくために河上が選んだ就職先は、スーパーマーケットの中で30店舗をチェーン展開するインストアベーカリー。初任給は8万円。 職人見習いの仕事は、生地の仕込み、天板拭き、パン出し、ドーナツ の製造と掃除だ。早く仕事を覚え、少しでも給料を上げたいと、朝は 誰よりも早く出勤し、一日15、16時間働いた。

働き始めてすぐ、河上は、その後の人生に大きな影響を与える人物と出会う。100人のパン職人のトップに立つ製造チーフであり、“パンの神様”と呼ばれた林三治(はやしさんじ)氏である。

酵母菌の研究者という異色の経歴を持ち、とても寡黙で、口で何か を言って教えるという指導は一切しない。怖いほどの威圧感を放つ林 氏。しかし、その神の手がつくり出すパンのおいしさは、同じ材料と 作業工程でほかの職人が焼いたものとは比べ物にならず、パン業界に 入ったばかりの河上に強烈な印象を残した。

一方で、林氏も河上の高い能力と人並外れた集中力を見抜いていた。 河上がインストアベーカリーで働いた半年間で林氏と仕事をしたの は、わずかに4回。それにも関わらず、程なくしてオープンした自分 の店に、製パン経験1年にも満たない19歳の青年を呼び寄せたのだ。

1981年11月、河上の人生でたった一人の師匠であり、恩師と慕う“パ ンの神様”が藤井寺市に開業したパンリッチで働くことになった。

河上少年の思い出の味 カレーキャベツ入りホットドッグ

河上は小学生のころ、狩猟や釣りが趣味だっ た父親に付いて、よく山や川に遊びに行った。 猟が解禁になる11月~2月は、父親と一緒に キジやヤマドリ、コジュケイ、ウサギ、イノ シシ、クマなどを狩り、猟期以外は、山の中 で猟犬のポインターの訓練をする。行き先は、 たいてい奈良県の生駒山か信貴山(しぎさん)だった。

猟犬と走り回っているとおなかがすくが、 山中に店などない。そんな中で、河上が楽し みにしていたのがホットドッグだ。山道の脇 に空地があり、ホットドッグを売る派手なバ ンがいつも停まっていた。バックドアが大きく 開き、そのまま店になっている。

1970年代、大阪の街中ですらホットドッグ の移動販売車を見かけることはなかった。バ ンの車体の色ははっきり覚えていないが、ホッ トドッグの味は鮮明に記憶している。軽く焼 いたドッグパンの中は、カレー粉で炒めた千 切りキャベツとソーセージ。子どもはケチャップだけ、大人はマスタードもかける。とにかく、 このホットドッグを食べるのが楽しみだった。

40年以上前に河上が初めて食べたホット ドッグの味は、おかやま工房で再現されてい る。炒める手間のかかるカレーキャベツを生 の千切りキャベツにしたいと部下が言ってき たことがある。河上は「俺の思い入れのある カレーキャベツを変えるなら、今の味を超え てみろ」と試作をさせたが、やはり生のキャ ベツではおいしくない。もちろん提案は却下 された。

当時食べたホットドッグのドッグパンは、 カレーキャベツとソーセージをサンドしてか ら軽く焼くが、ベーカリーの店頭ではそこま ではできない。本店のリエゾンには、石窯で 焼くナポリピッツァを提供するブースが店外 にあるが、河上は、そこにホットドッグマシ ンを置きたいと考えている。河上少年の思い 出の味が、完全に再現される日は近い。

1984年 22歳、自己資金100万、 借金1400万円で独立

ベーカリー自体が少なく、焼きたてのパンが珍しかった1980年代。 林氏と河上がつくり出すパンリッチの焼きたてパンは飛ぶように売れ た。店は評判になり、業績は伸び続けた。すぐに日商30万円を売り 上げる繁盛店となり、河上は二十歳そこそこで2号店、3号店の立ち 上げを任された。

3店舗となったパンリッチの業績は好調だった。1店舗の店長と全3 店舗の統括マネージャーを兼務していた河上の月給は約40万円。22 歳がもらう給料としてはかなりの高額だったが、父親の破産がトラウ マとなり、お金に対する恐怖心と執着心があった。一円でも多く稼ぎ たいと言う河上に、林氏は独立を勧めた。100万円しか貯金がなく、 独立など考えてもいなかったが、林氏は、独立は一日でも早いほうが 成功すると言う。バブルに向かい、日本経済が右肩上がりだった時代 である。河上は、師匠の勧めならばと周囲の反対を押し切って独立を 決意。河上の妻も1年だけの約束で店を手伝うことになった。

初期投資には約1500万円が必要。林氏は河上に現金400万円を貸 し、製パン設備のリース料500万円の保証人を引き受けた。内装工事 費の500万円も林氏を保証人に国民生活金融公庫(現在の日本政策金 融公庫)から借りられると思っていたが、3年のキャリア、22歳の年齢、 100万円という自己資金の少なさを理由に、予想外の門前払いを受け る。何度も足を運んだが、結果は変わらなかった。すでに店舗の内装 工事はほぼ完了していたため、河上は工務店に頭を下げて借用書を書 き、必ず1年で返済すると約束した。

1984年8月1日、河上22歳の夏。羽曳野市南恵我之荘にフレッシュ ベーカリー・パンクックは無事オープンした。オープン初日の売り上 げは30万円。店は多くの来店客で賑わったが、自分の店を持ったと いう感慨よりも、林氏と工務店への借金900万円を1年で返さなけれ ばならないプレッシャーのほうが何倍も大きかった。

1986年 1年で900万円を完済 有限会社パンクック設立

パンクックに失敗は許されない。河上は、独立したら自分のカラー を出したいとは思っていなかった。とにかく確実に売り上げを伸ばし、 借金を返済することが最優先。林氏のパンリッチと同じパンが並び、 内装もそっくりのパンクック。当初の目論見通り、繁盛店のコピー店 は、あっという間に人気店となった。

河上と妻の明美は、パンリッチで出会った、いわば社内結婚である。 阿吽の呼吸で仕事をする夫婦の住まいは、家賃10万円の店舗付き住 宅の2階。妻は午前2時に起き、店に出すサンドイッチをつくり、6 時半の開店の準備をする。そして、河上を3時に起こし、早朝のパー ト従業員がいる間に長女の陽子を保育園に送り、戻ったらすぐに店へ。

河上は午前3時から午後11時まで休まず働いた。食事は立ったまま、 工房の作業台で家族と一緒に食べる。一日が終わると近所の銭湯に直 行し、3時間寝ると次の日が始まる。家事と育児、店の仕事のすべて をこなす妻の睡眠時間はわずか2時間半で、河上よりも短かった。

常に売り上げと返済のことしか頭になく、週6日、毎日20時間、死 にもの狂いで働く河上の体は、ときどき悲鳴を上げた。肩が動かない、 胃が痛い日々が続き、寝ていてうなされることも多かった。

肩が上がらず、焼けるパンの数が減って売り上げを落とす日もあっ たが、1年後には、日商12~13万円を売る繁盛店となり、1985年夏、 林氏と工務店に借りた900万円をちょうど1年で完済した。

約束通り、明美は1年で専業主婦に戻り、パートの販売スタッフを 入れた。製造スタッフを1人雇って売り上げが増え、また1人増やし て製造を3人体制にすると、河上の労働時間も17~18時間に減り、 日商は20万円にまで伸びた。税理士の助言もあり、信用を得るため、 創業当初から青色申告をしていたが、日商20万円になったら有限会 社化すると決めていた。オープンして2年3カ月、昭和61(1986)年 11月11日、河上の好きな1を並べ、有限会社パンクックは誕生した。

 「おいしいパンをつくったらあかん」

河上が今でも心に留めている言葉がある。

師匠である林氏は、 河上に常々こう言っていた。「河上、おいしいパンをつくった らあかん。パンは日常品や。嗜好品やない。おいしいパンをつ くると飽きられるぞ。1年は持っても5年、10年は続かへんぞ」。

パンとケーキでは、立ち位置が違う。たまに食べておいしい と思えるケーキのような個性の強すぎるパンでは、毎日は買っ てもらえない。毎日でも食べたい、おいしいけれど飽きないパ ンを提供しろというのが、林氏の教えだ。

河上が経営する岡山県内の2店舗には、あんパン、メロンパン、 クリームパン、食パンといった長く売れ続けている定番のパン があり、その配合は創業した35年前からまったく変えていない。 原材料はより品質の良いものに変え、生地に合成添加物を一切 使わず、同じ味を守り続けているのは、飽きられない、安全で おいしいパンを追求した結果である。

「たかがパン、されどパン」

「河上、たかがパンやからな」。これも、河 上が林氏に言われた言葉である。経営者になっ て35年、河上は、いつもこの言葉を心に留め ている。

そして、自身の部下やリエゾンプロジェク トで独立したオーナーたちには、「たかがパン、 されどパン」の気持ちを忘れるなと言い続け ている。

「たかがパン」というのは、パンやパンづく りを卑下した言葉ではない。パンは日常品で あり、贅沢品や嗜好品ではない。毎日飽きる ことなく、おいしく食べ続けてもらえる、安全・ 安心なものでなくてはならない。だからこそ、 河上は無添加にこだわるのだ。

「されどパン」の言葉には、一つのパンに心 を込め、魂を込めてつくってほしいという河 上の強い思いが表れている。

気持ちのこもったパンは味が違う。文字通 り、一つ一つ手でつくる手づくりのパン。最 初は丁寧につくっていても、販売数が増える と、とにかく数多くつくることに必死になり、 心を込めることを忘れ、知らず知らずのうち に雑になってしまう。すると、簡単にパンの 味は落ち、お客さまはそれに気づいて離れて いく。

本当に大変なのは、開業することではなく、 その店をお客さまに愛される繁盛店として、 長く続けていくことなのだ。

1987年 売れすぎて儲からない 焼きたて食パン

パンクックは、工房7坪、店3坪の10坪。経営は順調だったが、狭 い店では売り上げにも限界があり、立地が良ければもっと売れると確 信していた河上は、同じ羽曳野市内の恵我之荘で一番立地の良い場所 への移転を考えていた。1年で900万円を完済し、次の1年で約1000 万円を蓄えた頃、ちょうど良い物件が見つかる。銀行から1000万円 の融資を受け、1987年1月、最初の店から徒歩5分ほどの恵我之荘中 心部に移転オープン。マンションの1階に15坪の店を構えた。

移転を機に、店のイメージを一新。当時、全国にチェーン展開して 大成功していた北海道のベーカリー北欧。陳列棚が黒、トレーとトン グが金という斬新な内装デザインにひかれ、そっくりまねることに。 店名もHOKUOをまね、アルファベットのPan Cookに変えた。

工房10坪、店5坪と広くなり、高級感あふれる内装の新しいパンクッ クには、歩いてくる近所の常連が多く、客単価は500円~600円。好 立地も手伝って、すぐに日商は30万円に伸びた。

店の一番の売りだったのは、焼きたての食パン。毎朝6時半の開店 に合わせ、6時15分に1回目を焼き上げると決めていた。温かい食パ ンをスライスして売るため、家に帰るまでに2、3枚食べてしまうお 客さまが続出。焼きたて食パンは話題となり、アツアツでスライスで きない1本の食パンをまとめて買っていく常連客も増えたが、一回で 焼けるのは3斤の型で12本分の36斤。一日15回を焼くのが限界だった。

夏でも売れる食パンは、売り上げを安定させる。河上は、この食パ ン神話に疑問を感じていた。食パン12本を焼くのに必要な小麦粉は 10kg。1斤160円で売るので6000円にもならない。ほかのパンなら 生地が500個分つくれ、単価80円~100円で売れば、約5万円になる。 スライスする人件費や個別の包材も必要で、食パンでは儲からないの だ。売れすぎる食パンを売らないため、価格を180円、200円と値上 げしたが、河上の予想通り、店の売り上げは落ちなかった。

1990年 息子の転地療養で初めて岡山へ ご近所の縁で支店をオープン

河上も喘息持ちだったが、息子の勝史(かつし)の症状は深刻だった。病院で 点滴を受けたり、数日間入院したりすることもあった。そして、勝史 が2歳のころ、医師は転地療養を勧める。河上は藤井寺市に戸建て住 宅を購入し、家族で住んでいたが、当時の藤井寺は頻繁に光化学スモッ グが発生するほど空気が悪く、河上はすぐに転地療養を決めた。

林氏に相談すると、空気の良い郷里の岡山を勧められ、大和ハウス が手掛けた分譲住宅団地を見に行くことになった。28歳で初めて訪 れた岡山。旅行がてら、家族で倉敷美観地区の老舗旅館に泊まり、赤 磐郡山陽町(現赤磐市)にある岡山ネオポリスを訪ねた。

山があり、川があり、自然が豊か。山陽町の環境が気に入った河上 は、半ば強引に引っ越しを決め、26歳のときに1億円で購入した家を 1億5000万円で売却。岡山ネオポリスに家を建てた。

河上は経営に専念していた。山陽町に移り住むとすぐに勝史の喘息 は治り、河上の咳もウソのように消えたが、岡山はあくまで息子の転 地療養先。いずれは大阪に帰ろうと考えていた。

大阪の店の売り上げは、職人5人体制で日商35万円と好調。北欧の セントラルキッチンの元工場長を新たに店長に採用したが、工場長の 元部下で、独立希望の若い2人を雇う場所はなかった。河上の中に、 ふと岡山支店の構想が浮かぶ。実際に物件探しを始めると、偶然、近 所に住んでいたマンションオーナーが、自分の所有する岡山市西古松 のマンションの1階でパン屋を開かないかと持ちかけてきた。

岡山の県民性をよく知る林氏は、排他的な街での商売は難しいと反 対したが、河上は躊躇しなかった。開店には約2000万円必要だったが、 藤井寺の家を売って得た利益、執着心のない“泡銭” を充て、北欧出 身者の店長と、元部下の若い職人2人を大阪から岡山に呼び寄せた。

1990年8月、岡山市(現岡山市北区)西古松にパンクックの岡山支 店となるベーカリーハウスおかやま工房がオープンした。

邪道といわれたノーベンチ法が生んだ 口どけが良く、耳までおいしい食パン

「河上、売れる食パンつくりたいから、行く ぞ」。パンリッチがまだ1店舗だったころ、林 氏にそう言われ、定休日のたびに二人で大阪 のパン屋を見てまわった。30、40と店を訪ね、 おいしい食パンを見つけた店 では頭を下げて工房に入れて もらい、レシピを教えてほし いと頼み込む。当然、門前払 いをされることもあった。

当時のパンリッチの食パン も十分においしく、よく売れ ていたが、パンの耳はおいし くなかった。耳までおいしく 食べられる食パンをつくりた いとレシピを集め、林氏が最 終的にたどり着いた製法が、 どこの店もやっていなかった ノーベンチ法である。

通常、パンをつくるには、生地をこね上げ てから一次発酵させ、分割、丸めてガスを抜き、 ベンチタイムをとって生地を休める。そして その生地を成型し、最終発酵させてから焼く。

ところが、林氏の考案したノーベンチ法で は、分割したあとに丸めず、ベンチタイムを とらず、ガスを抜いたらすぐに成型し、最終発酵させて焼く。パンの口どけは格段に良く なるが、キメが粗くなるため、完全に邪道と いわれる製法で、見た目を重視する職人は今 も絶対にやらない。

林氏も河上も、素人目にはキメの違いがわ からないような見た目より、おいしさにこだ わる。クッキーのようにサクサクした食感の パンの耳が口の中ですっと溶ける新しい食パ ンは、パンリッチの大人気商品になった。

こうして生まれた食パンは、今でもおかやま工房の人気商品として店頭に並んでいる。

地域で愛されるベーカリーを目指して パンクック岡山店は直前に店名を変更

1990年8月、岡山1号店となるベーカリー ハウスおかやま工房が岡山市北区西古松に開 店した。大阪のパンクックを本店とし、支店 となるこの店の店名は、パンクック岡山店に なるはずだった。出店準備は順調に進み、オー プンの2、3カ月前まではパンクックの予定で、 包装紙のデザインもほぼ完成していた。

ところが、神奈川県の本牧にある有名ベー カリー、本牧館の青木茂氏との会食の場で、 河上はアドバイスを受ける。現在は本社を本 牧に移転し、屋号も社名も本牧館だが、もと もと本店は、ばろんという店名だった。不思 議に思い、なぜ本店の名前を本牧で使ってい ないのかたずねると、「本店は本牧からだいぶ 距離が離れているから、地元の人にかわいがっ てもらえるように、地元の名前を店名に入れ たんだよ」と青木氏。河上が岡山に支店を出 すと言うと、岡山に出すなら、店名に岡山の 地名を入れるべきと助言された。

本店と支店でわざわざ店名を変えるなど、 考えてもいなかった。急遽、新しい店名を考 え始めた河上の頭に浮かんだのは、工房とい う言葉。昔から図画工作や美術が大好きで、 将来は手づくりでモノをつくるいろいろな店 を持ち、株式会社工房という会社を興したい。 そんな夢を持っていたことをふと思い出した。

岡山という地名と合わせると岡山工房。漢 字にすると硬いイメージの岡山をひらがなに し、店名はおかやま工房に決めた。急いで包 装紙のデザインを変更してもらい、何とか開 店に間に合わせたが、パン屋らしくない店名 のため、オープン当初は、備前焼の店かと聞 かれることもあった。こうして、のちの株式 会社おかやま工房の社名は西古松で生まれた。

1992 部下を大阪店へ戻し、 再びコックコートを着る

大阪のパンクックの業績は順調。おかやま工房でも、開業時から日 商10万円、15万円を売り上げ、岡山の規模なら決して悪い数字では なかったが、大阪から呼び寄せた店長と2人の職人の人件費や住宅費 を含めると、日商20 万円の売り上げがないと経営は赤字だった。

オープンして半年、日商15万円から伸び悩む売り上げを増やすため、 店の包装紙を担当したデザイナーのアイデアで、高級感あるパンのメ ニュー表を作り、商圏にある家々のポストに投函して宣伝を試みた。 これが功を奏し、1年後には日商平均20万円を達成。メニュー表を配 るベーカリーなどほかになく、週末の集客がぐんと伸びた。

その頃の河上は、各店長に店を完全に任せ、子どもたちと岡山の 自然を満喫していた。店には週1回顔を出す程度だったため、大阪の 3人と岡山のスタッフとの間に深刻なコミュニケーションの問題が生 じていたことに気づかなかった。言葉と気質の違いはチームワークに 深い溝を生み、河上が知らされたときは、すでに店長がノイローゼ気 味で修復不可能な状態だった。やむなく、店長ら3人を大阪へ戻し、 1992年春、4年ぶりに河上がコックコートを着ることになった。

3人いた職人は河上1人になった。女性のパート・アルバイトのみ で営業するという危機的状況に、河上は、製造・販売の仕事を20人 のパート・アルバイトにどんどん教え、任せていく方法を選んだ。

製パンの経験がなく、さまざまな時間帯でシフトを組んで働く女性 が仕事を覚えやすいよう、わかりやすく手書きしたマニュアルを作成。 生地のキロ数ごとに配合する材料の分量をパターン化して明記した。

腱鞘炎になる製造スタッフが多かったため、一枚800円の重い天板 から、軽くて汚れが簡単に取れる一枚8000円のスミフロンに替えた。

未経験の女性スタッフが働ける工房に改善し、売り上げを落とすど ころか日商25万円にまで伸ばした河上は、職人がいなくても経営で きることを確信した。この経験が、今の経営方針にもつながっている。

岡山と大阪では文化が異なる 岡山人を怖がらせた和泉ナンバーと大阪弁

「岡山は商売が難しい。排他的でよそ者は受 け入れへん。大阪のパン屋が行ってもお客は 来えへんし、はやるのは最初だけで、すぐに 閑古鳥が鳴くぞ。俺は責任持てんからな」。西 古松に出店するという河上に、岡山の県民性 をよく知る林氏はこう言って反対した。

河上は知らされていなかったが、居抜きで 借りたマンション1階の25坪ほどの空き店舗 は、寿司屋が夜逃げをした物件だった。近所 の人が事情を知る中、突然始まったのが、見 るからに「大阪から来ました!」という雰囲 気の開店準備。和泉ナンバーのトラックが次 から次へとやってきて、全員大阪弁のスタッ フがいつも大声でしゃべっている。

河上の車も和泉ナンバー。カーテレフォン の付いたベンツカラーと呼ばれる濃紺のジャ ガーでときどき店の前に乗りつける。当然、 周囲の住民には怖がられ、嫌がられ、店の郵 便ポストに脅迫状めいた手紙が入っていたこ ともあった。

言葉や気質からくる岡山と大阪の文化の違 いに、大阪から来た店長と2人の若い職人は オープン後も苦労した。 コテコテの大阪弁を話す3人は、スタッフが 失敗をすると、「アホかおまえは!」「ボケ!」 などと言ってしまう。大阪ではごく普通の会話も、岡山出身のスタッフにはひどくきつい 言葉に聞こえ、怒られると怖がって泣き出し、 すぐに辞めていく。パート・アルバイトのス タッフが長続きしない。

大阪と岡山では従業員の気質も正反対だ。 大阪では、従業員同士が仲良くなって団結 し、好きなことを言い合って上の人間を煙た がる。岡山では、従業員が店長と仲良くなろ うとし、ほかの従業員の悪口や文句を店長に 言ってきた。

夜に遊ぶ場所がないと、定休日のたびに大阪 に帰っていた若い職人2人は、オープン1年で 大阪に帰らせてほしいと言い出し、スタッフ同 士のコミュニケーションが全くうまくいかない 状況に悩み続けた店長は、1年でノイローゼ状 態に。河上は、仕方なく全員を大阪の店へ戻す ことにした。

〝いらち〟の大阪人と 平気で待てる岡山人

大阪人は“いらち”である。せっかちで気が短いという意味 だが、待つこと、待たされることをとても嫌う。生粋の大阪人 の河上が西古松に店を構えて驚かされたのは、待つことを苦に しない、のんびりした岡山人気質だった。

大阪などの大都市と違い、女性の多くが運転免許を持ち、気 軽に車で移動する岡山。大阪のパンクックには駐車場がなかっ たが、売り上げに支障はなく、岡山でも駐車場3台分あれば十 分だと河上は考えていた。ところが、3台分では全く足りず、 おかやま工房の店の前は駐車場に入ろうとする車で渋滞し た。そばにバス停があり、バスの運転手からも苦情が出るほど だったが、それでも岡山のお客さまは、駐車場が空くのをじっ と待つ。

オープン初日も、配ったチラシの効果で予想を超える数の 来店客が押し寄せた。店の前に30人近い行列ができていたが、 誰も帰ろうとせず、平気で待っていた。

パンが売り切れ、「次の焼き上がりまで30分かかります」と 言うと、30分待って買って帰るのだ。それほど、おかやま工 房の焼きたてパンに魅力があったのだが、どんなに評判のおい しいパンでも、パンを並んでまで買うなど、大阪ではあり得な い。待つことを全く嫌がらない岡山の女性たちの様子は、大阪 からやってきた河上たちには理解できなかった。

1996 大阪の店を部下に譲り、 岡山に本店を移転

バブル景気が終わり、価格の安い商品が望まれる風潮の中、河上は、 パンの値段を安くする方法を模索していた。そこで、思い付いたのが セルフサービスのベーカリーである。パンクックの店頭を改装し、お 客さまがパンを選んでレジで精算し、自分で袋に入れるスーパーマー ケット方式を取り入れた。必要な販売スタッフはレジに一人。人件費 が減った分、パンの価格を下げられる上、焼きたてを手に取って感じ てもらえる画期的なサービスは、喜んでもらえるはずだった。

ところが、子どもが一人で買いに行けなくなった、高齢者には難し すぎるとクレームが相次ぎ、売り上げが半減。セルフサービスは大失 敗に終わり、半年足らずで再改装して元のスタイルに戻したが、売り 上げはすぐには回復せず、約2000万円の改装費がムダになった。

岡山に住まいを移してからも、河上は、週1、2回は岡山と大阪を 往復する生活をしていたが、ついに大事故を起こしてしまう。どしゃ ぶりの雨の中、大阪に向かう高速道路でスリップし、車は大破した。 当然、廃車である。血だらけで家に帰ると、妻の第一声は「お父さん、 死のうとしたん?」だった。改装の失敗で会社の経営が危ないと知っ ていた妻は、河上が自殺しようとしたと瞬間的に思ったのだ。

単なる事故だったが、河上は岡山と大阪を行ったり来たりする生活 をやめ、パンクックを手放すことにした。再改装後、客足も戻りつつ あり、店長への売却が決まった。

大阪と岡山、どちらの店も日商35万円を売り上げていたが、店舗 の賃料が安く、人件費もパート・アルバイトが中心で安いため、岡山 のほうが利益は大きい。事故がパンクック売却の契機にはなったが、 商売を考えれば、岡山でのビジネスのほうが魅力的だったのだ。

河上は、岡山に腰を据えて事業をやっていこうと決め、1996年2月、 有限会社パンクックから有限会社おかやま工房に社名を変更し、本社 を岡山に移転した。

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